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  • 2015.10.01 Thursday
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後藤新平と安場保和

 
この記事には登場しませんが、後藤新平が愛知医学校へ月給10円で赴任した最大の理由は、彼が医者になるまでを支えた安場保和の依頼だったからです。当然給料へのこだわりはあったわけで、そのあたりをキチンと書いてほしいと思います。

しかし後藤は名古屋に赴任中、岐阜で暴漢に襲われた板垣退助(板垣死すとも自由は死せず…で有名)の治療にあたることになり、一躍知名度が全国区になります。

たいせつなことは、義理をはたしたことで運がひらけていった、ということなのでしょうが、めぐりめぐって、そういう人間関係をたいせつにするからこそ人脈が形成されていったということだと思います。

なお、安場保和の先祖は、かの大石内蔵助が高輪細川家藩邸で切腹したときの介錯をした安場一平です。

平泉、文化遺産に!

平泉の文化遺産登録が決定しました。おめでたいことです。

4年前の夏に旅行しましたが、中尊寺の周辺は自然そのものが残っていて、お土産物店などもなく、じつにいい雰囲気でした。

浄土思想は、仏教が国家鎮護のためのものであった古代から、個々の救済を求めるという大きな宗教的変革のきっかけとなった思想です。それは、多くの人が一部の人間に隷属していた時代から、自分はなぜ生きているのか…という内面を考えるようになる時代のはじまりで、これがのちの鎌倉時代以降のリアリズムにつながっていくようになったと思います。

特定の宗教や宗派ということではなく、日本人の文化DNAとでもいうべき因子のひとつとして大事にするべきものだと思います。
 

平泉、世界文化遺産に決定 東北初、震災復興に励み 対象絞り、再挑戦実る

  フランス・パリで開かれている国連教育科学文化機関(ユネスコ)の第35回世界遺産委員会は26日、日本政府が推薦した「平泉の文化遺産」(岩手県平泉町)を、世界文化遺産に登録することを決めた。

 平泉は平成20年の遺産委で登録が見送られ、「浄土思想」を軸に金色堂で知られる中尊寺など対象を絞り込み、再挑戦していた。東北初の世界文化遺産になる。

 日本からの文化遺産登録は19年の「石見銀山遺跡とその文化的景観」(島根県大田市)以来。日本の世界遺産は、今回の遺産委で自然遺産登録が決まった「小笠原諸島」(東京都)と合わせ、文化遺産12件、自然遺産4件の計16件となる。

 平泉は平安時代に奥州藤原氏が築いた寺院や遺跡群。政府は18年に中尊寺など9つの構成資産を一体として登録推薦したが、ユネスコの諮問機関、国際記念物遺跡会議(イコモス)が大幅な見直しを求め「登録延期」となった。


東京大空襲記念日


東京大空襲(Wikipediaより)

第二次世界大戦中にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた大規模爆撃の総称。

通常の戦略爆撃は軍需産業を主に狙うものであるが、この空襲は、軍需産業のみならず女性と子供を含む非戦闘員も狙っていた点が最大の特徴である。

これはまぎれもなく人類史上最大級の虐殺行為である。

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空襲の被害者は、その前の関東大震災の被害者とともに、東京都慰霊堂に祀られています。


その後のコンスタンツェ


コンスタンツェはモーツァルトの奥さんの名前です。悪妻の代表的なひとりといわれたりもしますが、映画「アマデウス」では、ちょっとイメージが違いました(下記にその理由があります)。

今日はそのコンスタンツェが亡くなった日だそうです。1842年のことですが、生まれたのは1762年ですから、満80歳まで生きたことになります。

ファイル:Constanze Mozart Lange 1783 engraving detail.jpg

モーツァルトが亡くなったのが、1791年のことですから、そのあと50年も生きたわけですね。

その後の彼女にはさまざまな評価があります。以下ウィキぺディアの記述をコピペしておきます。

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モーツァルトの死亡した1791年、コンスタンツェは2人の子供の養育とモーツァルトの残した負債に独りで立ち向かうこととなった。家庭が大いに貧困に苦しんでいたのにもかかわらず、レクイエムの未完成の総譜を含む自筆譜をすぐには手放さず、1799年に音楽出版社ヨハン・アントン・アンドレに売却されたのが最初である。

さらにその10年後の1809年にコンスタンツェはデンマークの使節秘書・外交官であるゲオルク・ニコラウス・ニッセン(en)と再婚した。ニッセンと共にモーツァルトの最初の伝記を執筆した。1821年にこの夫婦はザルツブルクへ引っ越し、1826年にニッセンはそこで逝去している。

晩年のコンスタンツェはドームにほど近いミハエル広場に面した住居に暮らし、1841年にはモーツァルテウムの設立にも関与した。1842年3月6日にコンスタンツェは没するが、ミハエル広場には同年9月4日にミュンヘンの彫刻家ルートヴィッヒ・シュヴァンターラー(Ludwig Schwanthaler)作のモーツァルト記念像が立てられ、その後モーツァルト広場と命名された。

コンスタンツェの墓は、新市街の聖セバスティアン教会にある。同じ墓にはモーツァルトの父であるレオポルト・モーツァルト、2番目の夫ニッセン、姉アロイジアも眠る。

 悪妻説!!
 
1840年のコンスタンツェコンスタンツェを悪妻と見なすのは後世の観点であり、世界三大悪妻に数え上げるのも妥当とは言えない。彼女を悪妻とする人はいくつかの論拠を挙げているが、いずれも反駁しうるものである。

モーツァルトの伝記はコンスタンツェの視点から描かれており、自分に不都合な事実には触れていない。
浪費家であった。
モーツァルトが死んだ時、別荘で遊んでいた。
自筆の楽譜や書簡を売却している。特に自分に不都合な書簡は破棄している。
モーツァルトの葬儀をないがしろにした(ゆえにモーツァルトの墓がどこにあるかわからない。共同墓地に葬られたからである)。
再婚した(ゆえに不貞であるとされた)。
子供(父親は公式にはモーツァルト)に、モーツァルトの弟子ジュースマイヤーの名前をつけている(フランツ・クサーヴァー・モーツァルト、モーツァルト二世)。ゆえに生前から二人は関係があったのではないか?という憶測。
これらのうち幾つかは、生活のためにやむを得ず行ったこともあるであろうし、また、モーツァルトという音楽家を偉大であると評価するあまりに、史料の損失の責任を彼女に被せすぎている面も否めない。批判の出典を調べていくと同時代の記録どころか後世の悪意に満ちた推測であることもまた多い。これら批判に対する反論としては例えば以下のようなものが見られる。

周囲の人々の手紙などで残された人物評によれば教養が高く家事にも熱心な快活な娘であって、不精で愚かであるとする悪妻説の人物像は当てはまらない。何よりモーツァルト自身が妻への愛情に溢れた手紙を残している。
モーツァルトは実際には晩年もかなりの収入があり、夫妻(モーツァルト自身もかなりの浪費家であった)とも収入に見合った出費をしていた。
もともと病弱でモーツァルトの死の前にコンスタンツェも病に倒れており、モーツァルト自身が別荘での療養に行かせた。コンスタンツェは夫の死の前に帰宅しており、別荘で遊んでいたわけではない。
楽譜等を売却したのは、子供を抱えての夫の死後の生活を支えるためである。
モーツァルトの葬儀が薄葬であり、埋葬も共同墓地であったのは皇帝ヨーゼフ2世の葬儀合理化政策と慣習に従ったものにすぎない。
再婚自体も生活を支えるためであり、夫ニッセンとともにモーツァルトの名を高めるために尽力している。
コンスタンツェは「思慮深く、経済観念も発達していて、夫の作品を守ったことは、多くの資料が証明している」(ミシェル・パルティ)とする意見もある。

こうした意見を受けてか「アマデウス」では生活苦に陥っても夫の作品を誇りに思い、作品の屈辱的な扱いに憤慨するという一面が描かれた。


 


絵島、高遠へ流される

 
3月5日は、江戸時代前期の江戸城大奥で御年寄職(幹部職の役名、年齢は30歳ほど)であった絵島が、行跡不届きを理由に信州高遠に流された日です(ただし旧暦)。

このときの気候は、高遠ではやっと桜が咲きそろう時期だったと考えられます。高遠には何度も桜の時期に行きましたが、普段は静かなこの町が一年でもっとも華やぐときでした。

しかし、町そのものは山間の静かなところです。江戸城で長く暮した絵島にとって、その静けさはおそらく耐えがたいほどのものだったのではないかと思います。



事件の顛末やその背景については、上記の文庫本で、卜部典子先生(本名:志茂田典子)が執筆した章をお読みくださいね。


絵島、高遠へ

 

3月5日は、江戸城大奥でお年寄り(幹部職のこと、30歳くらいだった)であった絵島が、行跡不届きということで、信州高遠へ流された日です(ただし旧暦)。

詳しくは上記の文庫本に、卜部典子先生(本名:志茂田典子)が執筆をされていますので、ご覧くださいね。

念仏停止(ねんぶつちょうじ)と親鸞

 
2月18日は法然上人や親鸞聖人が「念仏停止(ねんぶつちょうじ、と読みます)」によって、僧籍がはく奪され、流罪となった日です(建永2年=承元元年・1207)。



親鸞聖人は越後へと流されます(下記の写真は、越後・居多ケ浜の親鸞聖人上陸の地の碑、上越市)が、その後の親鸞の思想の深化はこれを契機とするものだと考えられます。




詳しくは、3月発売の文庫『親鸞』(人物文庫、新人物往来社)(二葉憲香他著、私も分担執筆)をご覧くださいね。


前田利常の話

 
もうひとつ、春には、同じ新人物往来社からの文庫本で、『江戸大名の晩年と最後』という本がでる予定です。

こちらには、私が以前雑誌に書いた前田利常の話が掲載されます。

前田利常は利家の四男です(生母はまつではありません)。のち加賀藩三代藩主となりますが、なかなかユニークな殿様で、私が結構好きなキャラクターです。彼のエピソードはいろいろありますが、もっとも有名な話が「鼻毛」です。

詳しくは文庫を立ち読みしてくださいね!

文庫版の『親鸞』、無事入稿

 
浄土真宗の宗祖親鸞聖人が亡くなって750年ほど経ちます。ということで浄土真宗の各宗派では、昨年から来年にかけてさまざまな行事を執行しています。

これにあわせて、さまざまな本が出版される予定で、私も新人物往来社から出版される文庫版の『親鸞』という本の分担執筆を依頼され、今日無事に入稿しました。

分量は約40枚ほど(トータルで16000字くらい)でしたが、1月から自宅にある本をひさびさに読み返し、いろいろと考え、かつて学んだことと自分のその後の考え方を振り返ったり、なかなか充実した半月でした。

3月中旬ごろに出版予定とのことです。決定したら改めてご紹介します。




三蔵法師の話(7世紀のバーミアン)

 6日記事よりつづく。

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玄奘は帰国後、持ち帰った仏典の翻訳に残りの生涯を賭ける。皇帝からは政事に参画することを求められたが、仏典漢訳に余生を集中することの理解をえて、翻訳事業に対して帝の全面的な支援を受けている。麟徳元年(664)に、玄奘三蔵は62歳で没するが、訳業19年、死の間際まで漢訳への翻訳に打ちこんだ。それでも、持ち帰った経典の約3分の1しか訳せなかったという。玄奘三蔵が翻訳した経典の数は、大般若経600巻をはじめ74部1335巻にのぼる。

今、日本で最も読誦される「般若心経」の基となったのは、この大般若経である。

大変画期的な翻訳とされ、玄奘より前の翻訳は「旧訳[くやく]」といわれ、玄奘以後の翻訳を「新訳」と称して区別され、この彼の仏典翻訳によって唐代の仏教興隆の基礎が築かれた。

玄奘は帰国後、このように訳経に専念したため、唯識学の教学の研究と伝道は、一番弟子の慈恩大師に任せた。慈恩大師は姓を窺[き]、名を基[き]といい、17歳のときに玄奘に見出されてその弟子となるが、豪放磊落[ごうほうらいらく]な性格の人物であったという。彼は玄奘から諸国の言語を学び、玄奘の訳経の手助けもしながら、唯識教学を研究して、その奥義をきわめている。

<寺沢龍 「薬師寺再興」草思社より転載したものを加筆、修正しています>

つづく


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