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寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件)

 
慶応2年(1866)1月23日、京都伏見の寺田屋にて坂本龍馬が襲撃されました(無事、のがれて命に別条はありませんでしたが・・・)。

ということで、書きたいのは、その後の寺田屋のことです。

ウィキペディアには、次のような記載があります。


現存の寺田屋と当時の建物との同一性
 
現在の寺田屋現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。[1]2008年になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。

京都市歴史資料館のウェブサイトにある「いしぶみデータベース」では、「寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し,現在の建物はその後再建したものである。」と紹介している。

大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたものであり、「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はない。
...............................

歴史的に有名な話にはこのような事例は少なくありません。観光としてどう受け止めるかは、個人個人の問題ですから、どちらでもいいのでしょうが、歴史的事実を追うとなれば話は別です。

以前にも書きましたが、私は江戸城天守の復元(再興)には反対しています。それは、明暦の大火で天守が焼失したあと、明確な意図をもって幕府は再建しませんでした。もちろん明治政府は幕府の意図を継承することもありませんでしたし、現代が江戸幕府の意図を継承する必要もありません。ただその明確な意図をひるがえす説得力が復元にあるならば理解しますが。

地方都市で城郭復元の話が数多くあります。地域振興、あるいは観光開発などさまざまな理由が挙げられます。一概にその是非を論じることはできませんが、江戸城に関していえば、幕府を倒してその本拠地を皇居としたわけですから、なにも倒した政権のシンボルをそこに復元することはないのではないか、というのが私の素朴な理由です。

城は天守だけが城ではありません。地政学的な意味がもっとも大切で、なぜそこに城があったのか?ということがもっとも基本です。ただ昔ここにあったから復元したい・・・というのは、どうかと思います。




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