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  • 2015.10.01 Thursday
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三蔵法師の話(7世紀のバーミアン)

6日記事よりつづく。

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玄奘は帰国後、持ち帰った仏典の翻訳に残りの生涯を賭ける。皇帝からは政事に参画することを求められたが、仏典漢訳に余生を集中することの理解をえて、翻訳事業に対して帝の全面的な支援を受けている。麟徳元年(664)に、玄奘三蔵は62歳で没するが、訳業19年、死の間際まで漢訳への翻訳に打ちこんだ。それでも、持ち帰った経典の約3分の1しか訳せなかったという。玄奘三蔵が翻訳した経典の数は、大般若経600巻をはじめ74部1335巻にのぼる。

今、日本で最も読誦される「般若心経」の基となったのは、この大般若経である。

大変画期的な翻訳とされ、玄奘より前の翻訳は「旧訳[くやく]」といわれ、玄奘以後の翻訳を「新訳」と称して区別され、この彼の仏典翻訳によって唐代の仏教興隆の基礎が築かれた。

玄奘は帰国後、このように訳経に専念したため、唯識学の教学の研究と伝道は、一番弟子の慈恩大師に任せた。慈恩大師は姓を窺[き]、名を基[き]といい、17歳のときに玄奘に見出されてその弟子となるが、豪放磊落[ごうほうらいらく]な性格の人物であったという。彼は玄奘から諸国の言語を学び、玄奘の訳経の手助けもしながら、唯識教学を研究して、その奥義をきわめている。

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以上、薬師寺HPより引用させていただきました。明日へとつづきます。


三蔵法師の話(7世紀のバーミアン)

5日記事につづく。

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その中心となる目的は、瑜伽師地論と唯識論の奥義をきわめることである。当時、唐の国は鎖国政策をとっており、国の出入りを禁止していた。玄奘はなんども嘆願書を出して出国の許可を求めるが許されなかった。

 玄奘は決心して、貞観3年(629)27歳のとき、国禁を犯して密出国する。玄奘の旅は、草木一本もなく水もない灼熱のなか、砂嵐が吹きつけるタクラマカン砂漠を歩き、また、雪と氷にとざされた厳寒の天山山脈を越え、時に盗賊にも襲われる苛酷な道のりを旅して行った。三年後に、ようやくインドにたどり着き、中インドのナーランダー寺院で戒賢論師に師事して唯識教学を学び、インド各地の仏跡を訪ね歩いた。

 帰路も往路と同じような辛苦を重ねながら、仏像・仏舎利のほかサンスクリット(梵語)の仏経原典657部を携えて、貞観19年(645)に長安の都に帰ってきた。この年は、日本では、中大兄皇子(天智天皇)が中臣鎌足らと謀って、蘇我蝦夷・入鹿親子を減ぼした「大化の改新」の年にあたる。

 玄奘のインド・西域求法の旅は、通過した国が128国、実に3万キロに及んでいた。すでに、唐を発って17年の歳月がすぎ、玄奘はこのとき44歳になっていた。密出国の出発時と違って、彼の帰還は時の唐の帝・太宗の大歓迎を受ける。太宗は、国境近くまで出迎えの使者を出すほどであった。

つづく


三蔵法師の話(7世紀のバーミアン)

 
今日は玄奘三蔵の命日です。

玄奘三蔵といえば「西遊記」があまりにも有名ですが、実際でもインドへ仏教の教えを学びに難行の旅を実行した人でした。

奈良の薬師寺は法相宗の寺院ですが、この法相宗とは、唯識を宗旨とします。この教えを開いたのが玄奘三蔵の弟子慈恩大師で、慈恩は、玄奘がインドから持ち帰った経典を中国語に翻訳し、そこから唯識という思想を整理したものを、法相宗として一派をなしたものです。

したがって薬師寺は玄奘三蔵にゆかりのある寺ということで、HPには玄奘の伝記が以下のように整理されています。

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玄奘三蔵(600または602〜664)は中国・隋の時代に生まれ、唐の時代に盛名を馳せた仏法僧です。いまでは、三蔵法師といえば玄奘三蔵のことを指すようになっているが、もともとは釈迦の教えの「経」、仏教者の守るべき戒律の「律」、経と律を研究した「論」の三つを究めた僧を三蔵といい、普通名詞なのである。したがって大勢の三蔵法師がいたが、なかでも玄奘はきわめて優れていたので、三蔵法師といえば玄奘のこととなりました。

玄奘は陳家の四人兄弟の末子で、彼が10歳のときに父が亡くなり、翌年洛陽に出て出家していた次兄のもとに引き取られた。13歳のときに僧に選ばれ、法名を玄奘と呼ばれることになる。玄奘は25、6歳ころまで、仏法と高僧の教えを求めて、中国各地を巡歴した。修行が深まるにつれて教えに疑念を懐くようになった。漢訳経典にその答えを求めるが、各地の高僧名僧も異なる自説をふりまわして、玄奘の疑問を解くにはいたらなかった。このうえは、天竺(インド)におもむき、教義の原典に接し、かの地の高僧論師に直接の解義を得るしかほかに途はないと思い立った。

つづく


寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件)

 
慶応2年(1866)1月23日、京都伏見の寺田屋にて坂本龍馬が襲撃されました(無事、のがれて命に別条はありませんでしたが・・・)。

ということで、書きたいのは、その後の寺田屋のことです。

ウィキペディアには、次のような記載があります。


現存の寺田屋と当時の建物との同一性
 
現在の寺田屋現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。[1]2008年になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。

京都市歴史資料館のウェブサイトにある「いしぶみデータベース」では、「寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し,現在の建物はその後再建したものである。」と紹介している。

大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたものであり、「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はない。
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歴史的に有名な話にはこのような事例は少なくありません。観光としてどう受け止めるかは、個人個人の問題ですから、どちらでもいいのでしょうが、歴史的事実を追うとなれば話は別です。

以前にも書きましたが、私は江戸城天守の復元(再興)には反対しています。それは、明暦の大火で天守が焼失したあと、明確な意図をもって幕府は再建しませんでした。もちろん明治政府は幕府の意図を継承することもありませんでしたし、現代が江戸幕府の意図を継承する必要もありません。ただその明確な意図をひるがえす説得力が復元にあるならば理解しますが。

地方都市で城郭復元の話が数多くあります。地域振興、あるいは観光開発などさまざまな理由が挙げられます。一概にその是非を論じることはできませんが、江戸城に関していえば、幕府を倒してその本拠地を皇居としたわけですから、なにも倒した政権のシンボルをそこに復元することはないのではないか、というのが私の素朴な理由です。

城は天守だけが城ではありません。地政学的な意味がもっとも大切で、なぜそこに城があったのか?ということがもっとも基本です。ただ昔ここにあったから復元したい・・・というのは、どうかと思います。




吉野の桜

吉野の桜をめぐるニュースです。

吉野には何度か足を運びました。最近ではおととしだったかな、ツアーで伊勢湾のリゾートホテル宿泊、吉野の桜と伊勢神宮参拝というコースに参加しました。

吉野は山ですから、麓から咲き始めた桜が、カレンダーとともに徐々に山の上に方に移っていきます。いわゆる下千本、中千本、上千本という有名な表現ですね。

さて全国の桜を結構見に行きました。主に城と桜をテーマにした旅で、その成果が下記の本になっています(完売しました)。しかし桜の名所はお城がらみに限らず、ほかにもたくさんあります。
 


首都圏でいえば、江戸城と千鳥が渕(あ、これはお城だ)、昨年みたところでいえば、幸手市の土手(詳細の名称は忘れました)、埼玉の吉見百穴あたりの桜・・・、ほかにもたくさんみることができました。

いまは「一本桜」にも惹かれます。

たとえば岐阜の薄墨桜、



拾い物の写真ですが、あまり写りがよくない分、薄墨のあじわいがあります。

話がまとまりませんが、こんなところで・・・。


天守閣は江戸城と姫路城のどちらが立派か?

 
お城は相変わらず人気が高いです。

姫路城天守は現存する日本の城郭のなかで最大規模であり、かつ美しい建造物です。世界遺産ですが、さもありなん、というところでしょう。

さて表題の問いですが、結論から言えば、江戸城に天守があったときの比較であれば江戸城です、というのが正解でしょう。

城郭というのは、もともと軍事上の建造物でしたから、縄張や建物の構造については当然秘密とされました。しかし江戸時代になって幕府の治世も落ち着いた正保元年(1644)、三代将軍徳川家光は、全国の大名に城絵図の提出を求めました。それ以前に、一国一城令をだして、各藩には城を1つだけ認める、としてそれ以外の城郭(あるいはそれに類する軍事上の構造物)の廃棄を命じました。こういう経緯があったので、各藩は幕府に遠慮して、お城の規模や建造物など、江戸城をしのがないようにしてきました。

以前(6月18日)に書いたように、江戸城は明暦の大火(明暦3年=1657)で天守が焼失してしまいますが、その後再建されませんでした。

これ以降、全国の城郭でも天守の新築ははばかられるようになったのです。城郭の新築や増改築はすべて幕府の許可制でした。勝手に増改築をやって責任を追及(減移封)された大名もいます。

こういうことから、天守閣新築の申請には「三階櫓」という名称を使ったり、地元で呼ぶときも「お三階」と呼ぶなど、相当気を使いました。

姫路城は幕府創設以前からあり、かつ幕府の最高実力者が居城としたことから、あの規模が幕府に公認されていたのですが、万一焼失していたら、あの規模での再建は無理だったでしょう。

さて、話は変わりますが、金沢出身の泉鏡花は、姫路城に取材した「天守物語」という小説を書いています。知人で金沢在住の漫画家・波津彬子さんはそれをマンガにしています。




この本には、他に「夜叉ヶ池」と「海神別荘」も含まれていてなかなか読み応えがあります。泉鏡花あたりは夏目漱石の作品などと違い、江戸の語り口を受け継いだ美文調で書かれているため、いまの私たちにはちょっと読みにくい部分も多いのですが、マンガではすっきりと読みやすくなっています。

いつも思うことですが、漫画家の仕事というのは、文字の視覚化ですから、大変なことだと思います。
機会があったらぜひ読んでみてください。




さて個人的な話ですが、昨日、波津さんから最新刊「女神さまと私2」(上の写真はその1ですが・・・)を送っていただきました。いつもありがとうございます。


広島城天守は自壊(中国新聞より転載)

 
広島城天守閣は自壊 学芸員推定、原爆爆風説を覆す '10/7/14

 原爆の爆風で吹き飛んだと信じられていた広島城(広島市中区)の天守閣が、低層階の柱が破壊されたために自らの重さで崩壊した可能性が高いことが分かった。当時の目撃証言や写真を基に、同城の学芸員が推定した。16日から天守閣内で、関連する資料を展示する。

 本田美和子学芸員と玉置和弘学芸員は被爆直後の航空写真に、爆心地から反対となる北側の堀に天守閣の残骸(ざんがい)が写っていない点に着目。当時城内にあった中国軍管区司令部や、城の北東にあった旧陸軍幼年学校で崩壊途中の城を見た人を探し、被爆後の天守閣の写真などをあらためて調べた。

 その結果、5層構造の天守閣が、上から3層は原形をとどめたまま崩れていったとの証言を得たほか、被爆後の別の写真には天守閣があった場所にがれきが残っていることも判明した。

 それらを基に、原爆の爆風が天守閣の低層部分を南から襲って柱を破壊。上から3層が原形をとどめたままいったん石垣の北東側にずり落ち、その後間もなく、支える柱が耐えきれず崩壊した―と結論づけた。

 本田学芸員らは「科学的な根拠のないまま吹き飛ばされたと信じられていたのだろう。物理学や建築の専門家の議論が始まってほしい」としている。

 資料展は9月5日までで、大人360円、高校生以下180円。(明知隼二)

【写真説明】<上>北東から撮影した昭和初期の広島城。右手前に天守閣(白線内)が見える(本田学芸員提供)
<下>1945年11月に北東から撮影した広島城。天守閣が消えている(原爆資料館提供)


大分県・中津城の売却

 
中津藩といえば、福沢諭吉の出身地ということになっていますが、実は、諭吉は大坂の生まれです。父親が大坂にあった中津藩の蔵屋敷勤務であったためです。大坂で生まれた(父がすぐに亡くなり、郷里に帰りますが)、という幼児体験(父は儒学者でしたが、仕事は商人との交渉であり、兄がいて、家庭内は比較的自由な家風だった・・・)がのちに諭吉が合理的精神の持ち主となるきっかけでもあったと指摘されたりもします。

(合理的精神・・・M.ウェーバーによる変動論にも登場します)

さて、この記事は、大分県中津市にある諭吉の主家奥平家の居城だった中津城が一般に売り出される・・・というものです。

写真:一般へ売却されることになった中津城=大分県中津市二ノ丁

記事のなかに上記の写真がありますが、お堀の上に模擬天守が作られています。設計は藤岡通夫さん(知人のおじさんで城郭研究の第一人者でした)ですが、ちょっと不自然です。


中津城は江戸時代のはじめに細川忠興によって整備されました。が、細川家は福岡の小倉城を本拠地とした(宮本武蔵の巌流島の逸話の時代ですね)ので、ここには天守閣を建てませんでした。

寛永9年(1632)、細川家は熊本へと転封され、播磨国龍野から小笠原(長次)家が中津城に入ります(小笠原本家は小倉城へ入る)。それから約50年ほど経った天和3年(1683)、中津城は火災により焼失してしまいました。このころ中津藩は財政問題で困窮しており、城郭復興も充分にはできなかったと考えられます。

また、このころの第3代藩主小笠原長胤は、しばらくのちに悪政(不当な増税など)などを理由に改易され、いろいろありましたが、結局、小笠原家は中津を去り、享保2年(1717)、奥平(昌成)家が入封しました。

さて以前、江戸城の話にも書きましたが、江戸は明暦3年(1657)1月、振袖火事(明暦の大火)に見舞われました。このとき江戸城天守も焼失してしまいます。

ときの幕府最高実力者であった保科正之は、江戸市中の再建計画を立てるにあたり、もはや江戸城に天守は不用である、としました。その費用は市中整備に当てるという大英断を下したのです。

以後、江戸城に天守を再建する話は出ませんでした(これが、私が江戸城天守再建に慎重であるべき・・・という論拠です)。また全国の大名家でも、江戸城に天守がないことをうけて、再建新築ともに
遠慮するようになりました。このとき以降の天守のほとんどが3層で、しかも「お三階」と呼ぶなどはばかるようになったのです。

奥平昌成の祖父昌能は徳川家康の玄孫にあたり、将軍家御連枝として徳川家と非常に近い関係にありました。こういう関係で言えば、幕府にはばかり壮大な天守を建てることはありえません。あったとしてもおそらく3層の城櫓であったものと思われます。

この模擬天守は昭和39年に萩城天守を模して作られた観光用のものです。城は確かに観光資源でもありますが、文化財、という観点からすれば、素直に「いい」といいづらいものがあります。

いま日本は観光立国を目指しています。しかし観光という美名のもとで、歴史的にありえなかったものを生み出していくことにはちょっと疑問を感じます。






大坂城と縁切寺(東慶寺)


大坂城(大阪という地名は明治以降)の遺構についての記事です。

コメントは改めて書きますが、備忘のためにUPしておきます。

ところで、豊臣秀頼の娘に天秀尼(幼名:奈阿姫)がいます。夏の陣のあと、千姫(徳川秀忠の娘)の幼女だったため助命されました。のちに鎌倉の東慶寺に入り、彼女の願いでここは「縁切寺」としての特権を得ます。



写真はネットより


Wikipediaには以下のようにあります。

奈阿姫(なあひめ)

(慶長14年(1609年) - 正保2年2月7日(1645年3月4日))は豊臣秀頼の娘。母は側室の小石の方(おいわのかた。成田助直の娘)。名は千代姫とも。出家後の名は天秀尼(てんしゅうに)。兄である豊臣国松とは異腹である。秀頼の正室である千姫とは義理の親子関係だったが、仲がよかったとされる。祖父豊臣秀吉の側室である、成田甲斐姫が養育を務めている。

奈阿姫は大坂城で生まれ、何不自由なく育った。慶長17年(1612年)4月頃から徳川家と豊臣家の関係が悪化。元和元年(1615年)の大坂夏の陣による大坂城落城後は、千姫が奈阿姫を自らの養女としていたために特別に助命され、出家して縁切り寺として有名な鎌倉の東慶寺に入る。この際、縁切り法を確立させたという。後にその20世住職となる。なお、このとき養育係である甲斐姫も入寺している。

寛永20年(1643年)、会津藩主加藤明成と家老の堀主水が仲違いして堀が殺害された時、東慶寺に堀の妻子が逃げ込んできた。明成は天秀尼に妻子の引渡しを要求するが、男子禁制・女性保護を楯に断り、幕府にその旨を訴えた。その結果、会津藩加藤家は改易され、東慶寺の力を全国に見せ付けたのである。そのようなこともあり縁切り寺となった。

正保2年(1645年)に37歳で死去し、豊臣秀吉の直系は断絶した。

あまり知られていませんが、江戸時代にはもうひとつ「縁切寺」がありました。それは群馬県太田市にある「徳川満徳寺」です。ここは「三行半」の研究で有名な高木侃さんが再発見した寺(明治になって廃寺されていました)で、いまは公園として整備され、本堂も復元されています。横には資料館もあって、日本で唯一の「離婚資料館」ともいえるものです。



満徳寺正門(ネットより)



ここは伊勢崎キャンパスから車なら15分か20分です。スクーリングのついでに見学されてはいかがでしょうか?

ちなみに代表といっしょに見学に行きましたが、いまのところ大丈夫のようです・・・。



佐倉城の話(野口さんからのメール)

 


千葉県にお住まいの野口さん(研究会もありがとうございました)から、佐倉城址のコメントをいただきました。

上記の本からははずしましたが、地元の義民・佐倉宗吾については元本にあります。義父(江崎俊平)は佐倉宗吾が好きだったようで、けっこうあちこちに原稿を書いています。上記の本にも掲載したかったのですが、調べなおしているうちに締め切りが危なくなり、残念ながらはずしました。

さて佐倉城ですが、上記の取材もあって見学に行きました。明治の廃城令で存置となり、陸軍が昭和20年まで配置されたので城址の保存は比較的よくなされています。

もともと千葉のこのあたりは豊かな土地で、江戸幕府の有力者たちの居城でした。江戸のはじめは幕府の最高幹部だった土井利勝、春日局のひ孫にあたる稲葉正通(正往)などがおり、最後のころには堀田氏が城主となりました。

千葉あたりはあまり大きな石が算出せず、したがって石垣ではなく土塁をめぐらした城(私は石垣ファンですが、土塁ももちろん好きです)でした。でもこのあたりの地形(印旛沼あたり)にはよくマッチしていたと思います。

野口さんのコメントには資料がない・・・とありましたが、佐倉藩が解体される明治初期までここには銅櫓(矢倉)という建物がありました。いわゆる天守(江戸城に天守閣がないので、重臣たちはこれに遠慮し、自分の城の天守相当の建物を「御三階櫓」と呼んでいました)ではありませんが、太田道灌が江戸城に建てた櫓といわれるもので、のち土井利勝に与えられたものでした。

解体される直前に写真が撮られており、もし復元するなら大きな参考資料になると思います。江戸城天守とちがい、こういう建物の復元は大賛成ですが・・・



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